京都のフットサル界で僕がやろうとしていたこと / 第5章 人生最大の挫折。

自分のフットサル場を建てたい。

フットサルに真剣に携わる方なら、一度は考えたことがあるだろう。僕も多くの皆さんと同様に、自分のフットサル場を建てたいと考えていた。

2010年当時、京都府社会人の3部リーグは民間フットサル施設で行っていて、そろそろ3部も公共の体育館で・・・という方向になっていた。また、さらなるチーム数拡大のために、4部に相当するエントランスリーグとシニアリーグの構想もあったので、会場確保は最大の問題となった。
公共の体育館は取れる枠が限られているし、設営や撤収に人手も要る。民間フットサル施設も、いつでもウェルカムというわけでもない。いざというときにいつでも自由に確保できる会場が必要だった。

当時僕はチームがサポートを受けているフットサル場に勤めていたのだが、半年後に、そのフットサル場が廃業する可能性が出てきた。チームの練習場所も確保しなければならない。

そのタイミングに、近隣のおあつらえ向きの1100坪の市街化調整区域の土地と、資金を貸してくれる地元の有力なスポンサーが僕の前に現れた。「木村君。自分がするんやったらなんぼでも出したるでー。」と社長が言う。

降って沸いた夢のような話。
人生はタイミングが肝心だ。僕はその話に飛び乗った。
すぐに勤めていたフットサル場を退職して、事業計画を立てた。2011年4月オープンだ。多少金はかかるが、工事着工してから前職の会社に営業権の譲渡契約を打診して、顧客も従業員もまるごと譲り受ける算段だった。売りたい会社と買いたい会社があるのだから、スムーズに話は進められるはず。

ところが、2011年2月に入ると、スポンサー社長が突然、一方的に破談を伝えてきた。
僕には一体何が起こったのかわからなかったが、その土地にもっとリスクの少ない借り手が現れたということだった。

天国から地獄。

それからはまさに、どん底だった。精神的にも、経済的にもだ。詳しくは酷すぎてここには書けない。飲み仲間には笑い話で話しているが(笑)。

フュンフバインの選手で年下の友人たちが、どん底の僕を救ってくれた。今考えれば、命を落としていてもおかしくない状況だった。僕は彼らに、いまだ返せていない大きな借りができた。
フュンフバインのスポンサーであったフットサル場は、その年には営業を継続したが、つい先日の2016年9月30日に15年の歴史に幕を閉じた。
僕はその後、なんとか正気を保って連盟の仕事は続けていたが、2012年、その時に勤めていた会社の業務上、連盟の理事を続けることができなくなった。
中途半端で責任を放棄した僕の仕事を、連盟のみなさんが引き継いでくださった。

迷惑をかけてしまったすべての方々に、大変申し訳なく深くお詫び申し上げます。

残された財産は、人との繋がり。

一文無しどころか借金しか残らなかった僕は、紆余曲折を経て、昨年夏から自宅で加圧トレーニングジム(Body Conditioning SQUEEZE)の経営を始めた。まだ1年ちょっとだが、これまで何度もピンチが訪れては、その度に人との繋がりに助けられ、借金を増やすことなくここまでやってこれた。助けてくれた多くの人が、フットサルで繋がった友人ばかりだ。フットサルを離れても、この繋がりだけが一生残る僕の財産であり強味だ。

この恩を、感謝の気持ちを忘れず、競技フットサルファンとしてこれからも色々な方の試合を応援に行きたいと思っている。

前回:【第4章 ずっと公言できずにいたこと。】へ

次回:【第6章 常識は敵。】につづく

 

今日も最後までお読みいただいてありがとうございました。



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